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英語のラップを練習するにあたって、ここでは簡単なリズムの知識と「フロウ・ダイアグラム」のローディングができることが必須であると考えます。とはいえ、難しいことではありませんし、皆さんがふだん自然とやっていることを頭で納得したほうが、このあとの練習もやりやすくなるはず、という考えに基づいて説明することですので、ぜひザッと確認してみましょう。

■拍=beat、小節=barについて まず、どんな曲でも構いませんので、1曲流しながら合わせて手拍子をしてみてください。だいたい、その 手拍子が1拍となるはずです。 分かりやすいように、手拍子と完全に同期するメロディになっている曲として、

童謡の「チューリップ」を例に挙げましょう。「さーいーたー」の箇所で、それぞれの言葉が1拍になっています。

また、これも一般的ですが(ラップにおいては99%があてはまるので、これを絶対として進めましょう)、 1拍が4回分で1小節になります。つまり、1拍、2拍、3拍、4拍のあとは、5拍、6拍、……、と進むのではなく、また1拍、2拍、……、と循環します。つまり、

リズムというのは一直線的にただ進行するのではなく、ひとつの周期を繰り返している わけです。

「〜分音符」について

もうひとつ、リズムを理解するには4分音符などの「〜分音符」は押さえておきたいところです。

さきほど、1拍が4回分で1小節になることを説明しました。これを、1小節を基準として考えてましょう。すると、 1拍は1小節の4分の1 になります。

これが4分音符 です。つまり、1小節というひとつのかたまりを何分割したかによって、「〜符音符」かが決まるのです。

いま「分割」と表現しましたが、リズムの「分割」は「半分にすること」が基本となります。1小節(全音符とも言います)を半分にして、2分音符。2分音符を半分にして4分音符。4分音符を半分にして8分音符。8分音符を半分にして16分音符。ポピュラーなラップではだいたいここまで1小節を分割して捉えることが多いです。

16分音符までを理解してもらうために、「チューリップ」にもう一度登場してもらいましょう。「チューリップ」は手拍子と完全に同期する曲ですから、1拍=4分音符を並べて作った曲だといえます。つまり、このリズムを半分にすれば8分音符が作れ、さらに半分にすれば16分音符が作れるわけです。


私の先輩であり、音楽仲間であるneralt氏が、BCCKSというウェブサービスを利用して、ついに本を出版しました。

『RHYTHM AND FINGER DRUMMING』という名のその本では、AKAIのMPCを主とするパッド式のドラムの操作方法と、ドラミングの技術とは切っても切り離すことのできないターム——グルーヴ——について、氏ならではのインテリジェンスと誠実さを用いながら語られています。

『RHYTHM AND FINGER DRUMMING』については、末尾に解説を少しばかり書いておりますので、よろしければ拝読いただければ幸いです。

MusicTheory,Nice Music,Cool Events 音楽理論、ジャズ理論を中心とした: 《音程至上主義》をその人差し指と薬指で/『本書執筆の動機』

で、こっからは自分の話でして、neraltさんの実行力に心打たれまして(笑)、自分も以前から暖めていたことを何とか書籍にしようと現在進めております。内容は非常に簡単で、「英語のラップを練習してみよう!」という、どなたでも楽しく読めるはずのものです。

以下は、おそらく出来上がった本の「前書き」となる予定のものです。よい書籍には、必ずよい編集者・校正者がいるように、これから書くエントリがモニタの向こうにいるよき編集者の目に留まることを祈ります(まあ留まらなくても勝手に出版しますけどね・笑)。


■ヒップホップを咀嚼できなかった日本人——日本語ラップは「進化」したのか?——

2014年。20年前、10年前と比べて、いろいろなことが変わったが、その中の一つとして、ラッパーがある程度の市民権を得たことは誰もが認めざるを得ないだろう。ラッパーが面白可笑しくえがかれた時代は終わり、今後は名声的にロック・ミュージシャンと並ぶ可能性すら出てきた(ドデかい妄想としては、ZEEBRAやKREVAが亡くなった日、朝のニュース番組で大々的に取り上げられたりするわけだ)。あるいは、「私はラップが好きです」とフロウする人物を想定するとき、その「ラップ」というのは、当たり前にヒップホップ(英語のラップ)を指していたが、今では邦楽のヒップホップつまり「日本語ラップ」を指すことも一般的になったのである。

ヒップホップは、ロックやブルースなどと同様に、アメリカで生まれた音楽ジャンルである。そして、日本語ラップは、ある日自発的に日本の国土から急に誕生した文化ではなく、アメリカのヒップホップを《輸入》して始まった。実際、私が中学生、高校生だった2000年代前半の日本語ラップを取り巻く状況を思い出してみると、ディスリスペクトのひとつとして「日本語ラップはヒップホップの劣化版」という、《輸入》がゆえの運命を日本語ラップは引き受けていた。

重要なのは、このディスリスペクトには「日本語ラップはヒップホップをもとにして誕生した」という仮定が含まれていることだ。そして、本書は、その仮定を真っ向から否定する。

つまり、本書の仮定は次のようになる。

「日本人にはヒップホップは理解できなかった。しかし、日本人は『ヒップホップをやりたい』という気持ちだけで障壁を強引に乗り越え、あるいはブチ壊し、オリジナリティすらも獲得した。」

この仮定からどんなテーゼが生まれるかの考察などは、本書の目的ではない。本書の目的は、この仮定の前半の「日本人にはヒップホップは理解できなかった」ことを検証するところにある。そして、この場合の「理解」とは、歴史学者や社会学者のような「ヒップホップとは〜で、このラッパーはどこ出身で、この単語にはこういう裏の意味がある」という知識的なものではなく、もっと身体的な理解、単純にいえば「ラップが歌唱できる」ところに求める。

よって、検証方法は、「TOEIC450点程度の日本人」である平均的な英語の能力を持ち合わせる私というサンプルが、実際にヒップホップを練習/習得する過程をお見せする。という、バカだがバカ故に強力な検証方法を用いる。

以下では、ヒップホップにおける「クラシック」を取り上げ、有名な1バースをフロウ・ダイアグラムで分析する。また、私(と読者)のペースで練習しながら、ヒップホップを習得することができるか/できないかを考察する。

日本人は果たしてヒップホップを咀嚼したのか?一度口に入れたは良いが吐き出してしまった残骸を、いま、もう一度放り込んでみよう。


猿田彦珈琲で買ったコーヒーを挽いている以外は、恵比寿で暮らしていることに気づかないような生活をしていますが、それに拍車をかけているのは、お笑いばかり見てるからでしょう。

デヴィ夫人は2014年も爆走を続けており、ついにシュートも覚えたというか、僕の好きなヤクルトスワローズのバレンティンと同じように、暴力行為をはたらいてしまいました(笑・自分で言って自分で回収しますが、バレンティン選手の一刻も早い日本への帰国とファーストの守備練習を願っております)。清原は面白そうな位置にいるつもりかもしれませんが、まだ全然笑えません。というわけで、正解は『お試しかっ!』でした。

そのまま番組は『SMAP×SMAP』に流れまして、香取君が槙原のマネをしてたのを見たのが失敗でした。「ドンナトキモ槙原とか久しぶりに見ようかな〜」なんて、ちょっとした弾みで調べたウッチャン関連の動画で、いつものように検索が止まらなくなってしまいました。

http://youtu.be/45ABM8IMNPI

『やるやら』から『笑う犬』までやった後、スタジオコントの灯が消えてしまいましたが、レッドカーペットから派生した番組『レッドシアター』で、内村は若手芸人とまたコントを始めようとしました。ここでつながった芸人の何人かは、『LIFE』のようなスタジオコントの復権にも関わっております。

http://youtu.be/dz_ehAoLx4Q

本当にバカみたいな話ですが、ウッチャンのコントを見るたびに感極まってしまいます。元気が欲しいときに聴く音楽なんて1曲も思い浮かびませんが、元気が欲しいときに見るコントなら腐るほどあります。

http://youtu.be/g2uop4GbGnc

※やっと笑う犬のオープニングを見つけました。死ぬ前に一度、これをやりたいっすね。

http://youtu.be/9GBLvYQu6QQ


最近引っ越しをしまして、恵比寿に暮らすようになりました。

実家は都心でないし、これまで一緒に住んでいた高田馬場も決して都会というわけであなく、人生で初めて「都会にすんでいる僕は」と感じております。今日は、テレビをつけましたら「ぐるナイ」の再放送がやっておりまして、いつものように豪華な食事が並んでいたわけですが、場所が東京ウェスティンホテルの「舞」という日本料理屋で、自宅から3分ほどで行けるとこでした。ちなみに、一番近いスーパーは三越百貨店です。

そんなわけで、出来心が揺れ動いたときには、ウェスティンホテルの最上階のラウンジ「スカイラウンジ」で一人物思いにふけっています。

隣の若いマダムは子どものかわいさをテーマにアフタヌーンティーセットを楽しみ、もう片方の隣では、エグゼクティブな男性4人(30代後半)が、ミックスジュースを飲んだり、シガーを嗜みながら、わたしには分からない用語でウン百万の何かを買うか買わないかの話をしています。

一方、わたしはと言いますと、貧乏人に見えないように精一杯のオシャレ(アイロンかけたチノパンを履けばなんとかなるだろ、と思っていました)をし、コミュ障に見えないよう精一杯のアイコンタクトでボーイを呼び、バカ舌と思われないように必死でホットチョコレートを頼みました(金額を見て寒気が走ったのです)。

「コスパ」という言葉を使えば、スタバでも同じようなことはできますし、なんなら自宅でやったほうが気楽でより美味しいものが作れかもしれません。しかし、自分の性というべきか、ときおりこういう「無駄」が楽しくなるのは何故でしょうか。若いマダムが子ども用のおもちゃを買いに席を外しました。シガーの香りが強く香っています。


2回目から急に普通になりますが(笑)、皆さんは「~コン」と聞いて、何を思い浮かべるでしょうか。エグゼクティブな皆様におかれましては、ロリコン(あるいはショタコン)とか合コン(あるいは合コン)が挙がるのではないかと思います。

このように、世の中には色々な「コン」がありますが、小堀にとっては、今も昔も「オリコン」であることは変わりありません。 「Original Confidence(絶対的な信頼)」略してオリコンと呼ばれるこのサービスは、1970年頃から今のようなランキングの掲載を始めました。そして、私たちがまだ恋愛の駆け引きを覚える前の頃ぐらいまでは、確固とした権威(まさしくオリジナル・コンフィデンスです)を持っていました。

私たちなら、「~が今週のオリコン1位かー」とか、「好きなアーティストがはじめてオリコン10位に入ったの!」とか、学校で話題にしていたこともあるでしょう。下のサイトは、10年前の年間オリコンチャートです。

2003年 シングル年間TOP100

しかし、少し前述したように、私たちが男/女に対して悩みを持ち始めた頃からでしょうか。オリコンに対する信頼は「絶対的」から「相対的」になっていきました。理由はいくつかありますが、自分の考えでは、それは「チャートは操作できるのではないか」という疑惑(※1)と、一方で、「チャートは操作できない」という諦めです。

そして、今回紹介する曲は、後者の革命を引き起こした、たった48人(時には16人ぐらいだったり、100人以上いたりする)の少女たちとオッサンによる、おそらく2013年一番の名作「恋するフォーチュンクッキー」(※2)です。

http://youtu.be/dFf4AgBNR1E

秋本康による作詞は言わずもがな、ここではやはり作曲と編曲に注目したいと思います。つまり、伊藤心太郎と武藤星児という、いわゆるAKBお抱えの作家に注目して、普通に過ごしていれば絶対に聴かない曲を紹介してみます。

伊藤心太郎は、Wikipediaによると、現在43歳。「60~80年代の西洋音楽に造詣が深い」人で、指原莉乃のソロアルバムの一曲である「初恋ヒルズ」で「卓越した音楽的センス、美的感覚の確かさを改めて証明した」ということです。繰り返しになりますが、こんな機会じゃなきゃ二度と聴かないでしょうから、「恋する〜」の作曲者が指原莉乃にはじめて提供した曲を聴いてみましょう。「AKBとか嫌いなのアタシ」って方でも、無音にしてPVを見る価値はありです。

http://youtu.be/I_Dnq8HGwr4

また、編曲(メロディ以外のパートを書くことです。あらためて)を務めた武藤星児は、こちらも現在43歳。「さよならクロール」というシングルなども手掛けており、ちょっと古いですが、「野菜シスターズ」もやってるみたいですね(笑)。

http://www.youtube.com/watch?v=pizw3Wf8MHM

オリコンによる権威づけが消滅した現在、「恋する〜」に対する本当の評価は、私たちが本当の愛を獲得してから随分と時間経った後になって、やっとわかることでしょう。しかし、今現在この曲がオリコン1位の座にいること、そして一定の強度を持って「名曲」として存在していることからも、この曲を手掛けた作家はやはり時代をつかんでいます。

もしあなたが「恋する〜」を「いいね!」と思った場合、ぜひ作家を辿って他の曲も聴いてみてください。より充実した音楽生活が楽しめるかもしれません(※3)。

※1 有名な事件として、烏賀陽弘道さんの記事とそれに対する裁判があります。 音楽配信メモ オリコンが自分たちに都合の悪い記事を書いたジャーナリストを潰すべく高額訴訟を起こす

※2 蛇足ですが、1:17の、指原莉乃による「占ってよ」の歌唱を聴く/見ると、いつも泣いてしまうのは自分だけでしょうか。一瞬の情報量が多すぎて混乱してしまっています。

※3 今回は、自分にとっては、ハズレでした(笑)。 (Facebookグループ「Club・馬場ハウス」への投稿より。2013年9月1日。)


HOT97を入れてからというもの、わたしの生活の中にヒップホップがまた定着しはじめ、やっぱり普段流しておくにはこのビートが良いことを再確認しています。というのも、ヒップホップはBGMとして流すには最適で、それは歌詞を理解できないことが関係しています。

邦楽はつい歌詞に耳がひっぱられてしまい、なにか仕事を始めたとしても最後は歌詞に感動してしまったり憤慨しているのが常です。その点、洋楽であればその心配はありません。ことさら、ヒップホップ=ラップは個々人の発音になまりがあるなど、日本人が英語を簡単に聴き取れないよう、万全のセキュリティをほどこしています。

英語が得意な人はかわいそうなことに、洋楽を純粋なBGMとして扱うことはできず、同じことをしたければ、聞いたこともない名前の国の聞いたこともないアーティストの曲を聴かなければいけないのです。つくづく英語が苦手でよかったと思います。

科学というものは、厳密に定義された明確な基礎概念の上に構築すべきであるという主張が、これまで何度も繰り返されてきた。しかし実際には、いかなる科学といえども、もっとも厳密な科学といえども、このような定義によって始まるものではないのである。科学活動の本来の端緒は、むしろ現象を記述すること、そしてこの現象の記述を大きなグループに分類し、配置し、相互に関連させることにある。この最初の記述の時点から、記述する現象になんらかの抽象的な観念をあてはめることは避けがたい。
(ジークムント・フロイト著、竹田青嗣編、中山元訳、1996年、「欲動とその運命」『自我論集』、筑摩書房。)

上記は、大学時代に夢中になって読んだフロイトの『自我論集』におさめられた論文の一つ、「欲動とその運命」の書き出しの引用です。中高を理系学生として過ごしてきたわたしは、なぜかフロイトにハマって、手に入れやすい著作を買い、こんな文章にばかり接していました。こういった文書を読んでいたらカッコよく見られるだろう、という気持ちも多少あったかもしれません(誰もわたしのことを見ていなかった、ということに気付くのはだいぶ先の話です)。しかし、久しぶりに本書を開いてみると、理解できるのは本書が日本語で書かれているのだろうという程度で、フロイトの思想が全く理解できていませんでした。

とはいえ、理解できていないことを取り上げるなら、フロイトだってわたしの思想を理解していないし、お互い様です。さらにいえば、わたし自身にもわたしの思想は理解できていないので、おそらくフロイト自身もフロイトの思想を理解できずに亡くなった可能性も否定できません(無意識的に理論を構築してた、とか)。